昭和41年12月08日 朝の御理解
限りなく美しゅうならせて頂くこと。限りなく美しゅうならせて頂こう、という事の内容と言うか、又はそのための手立てと言うか、まぁ様々なものがございます。まぁありとあらゆる、その美しゅうならせて頂くという事のための、それとは反対のものに取り組むことなんですけれども。そういう心の中に、自分を認めさせようと、自分を分からせようと相手にと言った様な心。いわばこれはいわゆる汚い心だとこう思うですね。それはその厳密に言うと、それがあるんですね。
もう自分の心、心が本当に分かったなら、私の心を分かって下さいとこう言うけれどね。その分からせようとする。また自分のしておる事を認めさせようとする。これなんかはもう、本当にその、自分だけではなくてですね、周囲までも、ぶち壊しにしてしまうんですよね。これはあのテレビなんかを見ておっても、お芝居なんかを見ても、それを思うんですけれども。確かに演技が素晴らしい演技なんです。けれどもその自分をより良く見せよう。自分をより認めさせようと言った様な、演技過剰とでも言うかね。
そう言う様なものがあると、それがもう鼻について、まぁそれが駄目になるだけじゃなくてですね。他のグループまでわやにしてしもうたり。これがお芝居であるならば、その自分だけを認めさせようと。それとですね。他のその演技をしておる人達の、演技までも壊してしまう、ぶち壊しにしてしまう、と言う例があるですね。相まっていくと言うかね。いわゆる例えば、お芝居で言うならば、主役よりも脇役、脇役よりも雑役と言う様な人達がです。
もう本当に一番一番演技しておる。それで初めてあの主役が光ってくる。いや芝居全体がバランスが取れてくる。ところがその他のが、俺を見て来させようと言った様な意識してですね。その演技致しますと、ちょっとあれは変った役者だなぁと。なかなかうまいじゃないかと、こういう風に都合よう行きますけれども、よくよく見よるとそれが鼻について、その芝居全体が崩れる。
ですからこれは私が美しゅうならせて頂くということの中に、そういう汚い心がですね。お互いの心がそこにあるんです。ね。それはそして、自他共に崩してしまうという事になりますから、ここんところにやはり、限りなく美しゅうならせて頂きましょうと言う、その中にはそういうものも、私はそういう心とも、取り組んでいかなければならないと思うですね。
昨日、善導寺の総代会がございまして、御神酒が出ましたからもう一杯機嫌で、結局私と渕上先生と、岸先生と三人が、まぁ何時も飲みますと、あんなに腹蔵ないことを、お互いが言い上げて話し合えるんだけど。飲んでないとここに何か、ぎこちないものがあってですね。何かがここに障害があって、お互いの気持ちが交流しない。それはもう本当に有難い。例えて言うと、今度私がまた薬院に行って、しなければならない手続きの書類が、全部そこに来ておるんですね。
それでその事についてからでしたが。先生がその親先生に先日こんな事を親先生と、あんたとここで話した。今度私だんが学院に行くなら、先生もう私が一緒に着いて行く。そしてまぁあなたが身体が弱いから出来んところは、私がその御用をさせて頂こうと。これはしかし嘘じゃないと思うですね。今の岸先生のお教会はどっちかと言うと、まぁ奥さんもおられないし、家は子供さんに任せておかれるし、本当に今度の記念祭でも、あの人達がこの打ち込んだ信心と言うものは、誰でもが認めておる位に一生懸命。
努め方が出来たんですから。例えばそれが私の学院行きが、三井教会の本当の繁盛に繋がると思い込んどりますからね。ですからあのそのくらいに、私の為に道を示してくれる。まぁそう言う様な話まで、昨日出たんですけれども。俺が気持ちばどうして分からんかという様な話なんですね。それでね本当に分からんとは相すまんばってん、ほんなこつが分かるとお互いが、げっそりしようがと私が言うんです。そしたらもう大笑いになってですね。本当にそうなんです。
そういう風に思うておる事は事実なんだけども、本当に自分を本当に分かって貰うたら、もうそれこそもう百年の恋も一遍に冷めて仕舞う様なものを、お互いが持っているという事なんです。本当に俺の気持ちを割った見せようごたる。どうしてこの私の気持ちが分からんかと。本当すまんね分からんちいう事は。本当済まんけれども一つここは本当に分かって貰うたら、げっそりしようぞと私が言うんです。ね。ですからその底にあるもの、ね。その底辺にあるもの。ね。そういう私は心に取り組んで行くという事。
今日は私、そう言う様な自分のもうそれこそ、自分の心をもう虫眼鏡ででも見たような気持ち。ね。掘り下げた上にも掘り下げさせて頂いて、どうぞ自分の心の底にはこんな美しごとを言っておるけれども、その心の底にはこんな汚いものがあると言う、その汚いものの中にです。私を認めさせようと私を分からせようと、私を分って貰いたい。それは立派ではありましてもです。ね。分かって貰いたいという事が、それは立派な事でありましてもです、ね。演技はどんなに例えば、優れておりましてもです、ね。
自分を認めさせようという事になって来る時に、演技過剰になって参りますてね。それがそのお芝居全体を壊してしまう。そしてあぁあれは上手とは上手ばってん、何とはなしに鼻につく見とってから。ね。それでは自他共に本当のおかげになって参りませんですから。私共はですね、そういう信心を実意丁寧というか真心というか、ね。それを自分の心のなかにずっと、そういう例えばそれが、立派な事でありましてもです。それを皆んなに分からせようとする様な、いわばまぁ言うなら卑しい心です。ね。
いうなら軽蔑をしたいような心なんです。そういう心がお互いの心の中にあるという事。ね。中には自分は大体五しか思うとらんでも、五しかなくてもそれを十にも十五にも見せようとする。もう本当に汚いそれなんかが赤裸々に出てきた時にですたい。汚い物を感ずるです、ね。ましてそれが人から見てもです。確かにはぁそげな立派なことを、例えば分からせれれるようにあるけれども、何とはなしにじき鼻につく。こらもうお芝居なんかを見とって、何時もそれを感ずる。ね。
だから本当にこのバランスの取れたと言うか、劇団なら劇団の場合なんかは、もう主役の手になり足になりしておる。雑役に至るまでが。テレビを考えてこうやらない。( ? )もうその、打つが打つまでです。持ち場持ち場でそれを一番に演技しておる。それが、この芝居全体を美しゅうなるだけじゃなくて、素晴らしさが生まれてくる。これは椛目全体の事も言える。ね。椛目全体のものがです。
そういうそのお互いの、汚い心に取り組んで、例えばご造営なら、ご造営がなされていく時です。何とも言えんものが生まれてくるのです。ね。そう言う様な何とも言えんというものが、それが自他共になるほどと、自分もあり難たけりゃ人が見ても、なるほどと言った様なものがある。ところがその何かこう言う様にせろと言った様な、ぎらぎらするようなものがです。
相手に感じさせられる時に、なるほどこら立派、立派ばってんから何と言うでしょうかね、不愉快な思いをさせる。見たん者に対して、ね。そう言う様なその物があるんです。ね。今日は特に限りなく美しゅうならせて頂こうと言う。限りなく美しくならせて頂くという内容、その内容の中にも様々なものがある。けれども私共はそこのそこにあるところの、美しくなりたいと言うものと、おおよそ隔たりのある。
それの反対のその心の中に、自分を認めさせよう、自分を分からせようと言う様な、いわば浅ましいと言うか、卑しいその根性というものがです。お互いの心の底にあるのですから、そういうものを取り組んで、そういうもののない本当に、淡々として演技が出来れる淡々として、そこんところの信心を、深めていけれるおかげを頂きたいという風に思いますですね。今日はそこん所を一つ取り組んで行きたいと思う。
どうぞ。